ユージン・スミスの写真
先日、なんでも鑑定団にユージン・スミス氏の写真が出ました。
久しぶりに見る写真で、学生時代を思い出してしまいました。
改めて、すごい写真家だったんだなぁと思います。
ユージン・スミスの写真を見た事がありますか?
学生時代、一通りの写真家の写真は見ましたが
何がすごくて、何が良いのか
逆に、何が無いからダメなのか…
理解するまで随分時間が掛かった記憶があります。
鑑定団に出た写真も有名な写真ですから、当然見た事があります。
日本とは、日立のPR写真そして有名な「ミナマタ」でのつながりがあります。
脊椎損傷、片目失明という重傷を負い
水俣病患者の怒り・苦しみ・悔しさを
自分の苦しみとして感じられるようになったと語っています。
自分が学生の頃、最初は背景もよくわからず写真を見るだけでしたが、
友人が、印刷物を持っていたのを見て強く印象に残る事になりました。
ただ、単に問題意識を前面に押し出すというのではなく、
時にはコミカルに、時には不思議に表現するというのが印象的です。
主観的でありながら客観的、客観的でありながら主観的という、
相反する印象を受けるのは私だけでしょうか?
モノクロプリント
学生時代、最初にやるのは
モノクロフィルムの現像とプリントでした。
中高からそういう作業はやっていましたが、お遊びみたいなもので、
とても何かを表現するなどといえるレベルではありませんでした。
ちっともプリントがうまくいかず、深みにはまりそうな時
知人から紹介された写真家と接点を持つ事になり、
少しずつ理解できるようになりました。
とは言え、それまでの経験は全否定、
写真を外せば全て哲学みたいな世界で、
18歳の自分には単語を受け止めるだけで精一杯でした。
プリント作業自体も、師匠に出会う前と考え方が全く違います。
中高時代は雑誌が頼りでしたが、根本から違うんですね。
結果としてやる作業は同じでも、論拠が違うわけです。
今にして思えば、起点がわかれば後は展開次第なわけですが、
当時は逆に、ものすごく狭い考え方に思えて
内心、反発していたくらいです。
どうして良いかわからず、息抜き半分に銀座の写真サロン巡りをして
随分多くの写真家の作品を見ましたが、
中でも、アンセル・アダムス、ハリー・キャラハン、モホリ・ナギ、瑛九の写真に
強烈なインパクトを受けました。
そういうオリジナルプリントを何回も見ると
師匠の言う事がなんとなくわかるようになってきました。
面白いもので、変化は突然来るもんですね。
自分じゃわからないのに、師匠にOK貰ったんです。
プリントそのものは、わかったと思うと壁が現れ
超えたと思うとまた壁が現れます。
表現って、ずっとそれの繰り返しみたいな気がします。
デジタル時代になったけど
面倒くさがりな私は、デジタルカメラ使ってますが、
写真の基本は、モノクロアナログ時代に持てたのが良かったと思います。
カラー写真でさえ芸術論では疑問視されていたくらいですから、
デジタルなんて論外かもしれませんね。
最近、芸術論自体を聞かないし話もしませんが、
その辺は、どうなんでしょう・・・
先の、ユージン・スミスもプリントには厳しく、
日本人の助手は、100枚のプリント中1枚しかOKをもらえなかったそうですが、
名を残す写真家の実際のプリント作業は、かなり厳しいものです。
デジタル時代になって、解像度も寛容度も上がりましたが、
使い切らなければ、それまでです。
撮るだけなら今はかなりのところまでやってくれますが、
それ以上を目指すとなると、やはり基礎が大事というのが良くわかります。
最終工程まで責任を持つのが大事なんですね。
ユージン・スミスの夫人、アイリーン・美緒子・スミスさんと
私の心の師匠、細江英公先生らとの話を発見しましたので、
興味をお持ちの方は、どうぞごらんください。
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